IT業界のM&Aは、日本国内で長年にわたり件数増加が続く「最も活発な業界」のひとつです。2025年は日本全体のM&A件数が5,115件(前年比8.8%増)と過去最多を更新し、取引金額も35.7兆円と前年比74.7%増で過去最高を記録しました(レコフデータ調べ)。この流れをIT業界が力強く牽引しています。売却を検討するIT企業のオーナーにとって、今こそ市場環境を正しく理解する好機です。
IT業界でM&Aが活発な背景
IT業界でM&Aが増え続ける背景には、複数の構造要因があります。
第一は深刻なエンジニア不足です。経済産業省の試算によると、IT人材は2030年に最大約79万人が不足するとされており、自社でエンジニアをゼロから採用・育成するよりも、既存チームごと買収する「タレントアクイジション(人材獲得型買収)」が合理的な選択肢になっています。
第二は技術変化のスピードです。クラウド、生成AI、サイバーセキュリティといった領域では技術の陳腐化が早く、自社開発では間に合わない局面が増えています。先端技術を持つスタートアップの買収が「研究開発の近道」として常態化してきました。
第三はDX需要の拡大です。製造業・金融・流通など異業種がデジタル化を加速させる中、ソフトウェア企業やシステム会社をグループに取り込む動きが目立ちます。IT業界のM&A件数は長年にわたって増加が続いており、こうした異業種からの需要が大きな役割を果たしています。
第四は事業承継問題です。東京商工リサーチの2025年「後継者不在率」調査によると、情報通信業の後継者不在率は77.06%と全業種で最も高く、全体(62.60%)を大きく上回ります。高齢オーナーの引退ニーズと買い手のニーズが重なり、M&Aが最善の出口戦略として選ばれるケースが増えています。
最近の動向
レコフデータによると、2025年通期の日本全体のM&A件数は5,115件(前年比8.8%増)で2年連続の最多更新、取引金額は35.7兆円(同74.7%増)で過去最高を記録しました。1〜9月期だけで3,694件・26.9兆円というペースで推移しており、IT分野が主要な牽引役のひとつとなっています。
フーリハン・ローキーの2025年市場総括によると、世界のM&A市場に占める日本の比率は2025年11月末時点で6.1%(金額ベース、前年4.0%)に上昇しており、日本市場全体が国際的な注目を集めていることが読み取れます。
また、ソフトウェア関連の市場規模も拡大が続いており、こうした市場の成長がM&Aの活発化を後押しする好循環が生まれています。
具体例:2026年6月に発表された案件(いずれも7月1日付で完了)では、飲食特化のクックビズが労務クラウドのTECH CREWを子会社化(議決権79.5%取得)、ボルテージがゲーム制作のオペラハウスを子会社化するなど、上場企業が技術・人材を取り込む「自社強化型」のM&Aが相次いでいます。
トレンドとして目立つのが生成AI関連の買収です。生成AI技術を持つスタートアップへの投資・買収は2024〜2025年にかけて急増しており、大手IT企業・事業会社・PEファンドの三者が競合する状況が生まれています。
また、2025年から2026年にかけての生成AI分野では、プロダクトそのものの取得よりも、優秀なAI開発チームや研究者を自社に取り込むことを主目的とする「アクハイアリング(Acq-hiring、人材獲得型買収)」と呼ばれる手法が世界的に注目されています。エンジニア獲得を背景とするIT業界のM&Aの潮流が、AI人材を巡ってさらに先鋭化した形といえます。
実例:株式会社ボルテージ(東証スタンダード)は2026年6月、制作プロダクションの株式会社オペラハウスを株式取得により子会社化すると発表し、7月1日付で議決権100%を取得しました。ゲーム開発力やアニメ制作ノウハウを持つ企業を取り込む、技術・人材獲得を目的とした自社強化型M&Aの一例です。
IT企業のM&Aの特徴
IT企業のバリュエーション(企業価値評価)では、有形資産より無形資産が重視されます。買い手が特に注目するのは以下の4点です。
- エンジニア組織の質と規模:技術力は人に紐づいているため、シニアエンジニアの在籍数や保有スキルセットがそのまま企業価値に直結します。
- ストック型収益の有無:SaaSやサブスクリプションモデルはARR(年間経常収益)が可視化しやすく、収益の安定性・予測可能性が高いため評価倍率が高くなる傾向があります。
- 顧客基盤の質:解約率(チャーン)が低く、大企業顧客を多く持つほど評価は高まります。
- プロダクトの独自性:オリジナルのソフトウェアや特許、データ資産は競合との差別化要因として評価されます。
デューデリジェンス(DD)やPMI(統合後プロセス)では、人材流出リスクが最大の論点になります。キーパーソンとなるエンジニアやCTOが売却後に離脱すると企業価値が著しく低下するため、買い手はキーマン条項(一定期間の在籍義務)をほぼ必ず求めます。売り手は事前にキーパーソンとのコミュニケーションを整えておくことが重要です。
売り手・買い手それぞれの視点
売り手(IT企業オーナー)の視点
IT企業の売り手が売却を検討するきっかけは、後継者不在・事業拡大資金の確保・オーナー自身の引退など様々です。市場環境が良好な今は、エンジニア組織・ストック収益・顧客基盤が整っていれば高い評価を得やすい状況です。
売却スキームの選択は売り手の利益に直結します。株式譲渡か事業譲渡かによって税務・手続きが異なるため、早期に専門家へ相談することが重要です(詳しくは株式譲渡と事業譲渡の違いを参照)。また、買い手への情報開示前に財務・法務・労務を整理しておくと、DD局面でのトラブルを防げます。
IT業界のM&Aは、他業界と比べて成約までの期間が短い傾向があるとされています。技術の進化スピードに合わせて買い手の意思決定も速いためです。売り手も「売り時を逃さない」意識で準備を進めることが求められます。
もう一つ見落とされがちなのが、ソースコードの品質です。コードが複雑化して見通しが悪い状態(いわゆるスパゲティコード)だったり、古い言語やフレームワークのまま放置されていたりすると、買収後の維持・改修に大きなコストがかかると判断され、技術DDで評価を下げる要因になります。ドキュメントの整備やコードの整理(リファクタリング)を日頃から進めておくことも、評価を落とさないための実務的なコツです。
買い手(事業会社・PEファンド)の視点
買い手側から見ると、IT企業の買収は「人材獲得」「技術取得」「市場拡大」の三つの目的に大別されます。自社のDX推進を目的とした異業種買収では、システム開発会社やSaaS企業がターゲットになるケースが多く見られます。
PEファンドのIT業界への関与も高水準が続いています。フーリハン・ローキーによると、2025年11月末時点でPE関与案件数は335件と高水準を維持しており、ストック型収益を持つITビジネスはファンドに好まれる業態です。
買い手がDD局面で特に精査するのは、エンジニアの雇用条件・離職リスク・技術負債の規模です。クラウド移行の進捗や生成AI対応状況も近年のチェックポイントとして重視されるようになっています。
IT企業の売却相場の目安(実測データ)
中小企業庁「登録支援機関を通じた中小M&Aの集計結果」(2022〜2024年度に成約した中小M&Aの譲渡側報告)によると、IT企業が含まれる大分類「情報通信業」のPER(株式譲渡価額÷純利益)は中央値14.3倍、四分位範囲7.8〜27.4倍(n=232)でした。2024年度のみ集計のEV/EBITDAでは中央値9.0倍(n=153)です。
たとえば年間の純利益が2,000万円の会社で考えてみます。中央値14.3倍を単純に当てはめると約2.9億円、ばらつきの幅(四分位範囲)で見ると約1.6億円〜約5.5億円が、実際に成約した価格帯の目安です。純利益×倍率の機械計算であり、個社の売却価格を保証するものではありません。
なお、この倍率試算は利益が出ている会社を前提にしています。赤字や利益がわずかでも、純資産や顧客基盤・人材・許認可が評価されて売却が成立するケースはあります。詳しくは赤字会社でも売却できる?買い手がつくケースと評価されるポイントで解説しています。
この倍率は大分類全体の集計であり、IT企業に特化した値ではありません。業種ごとの比較や倍率を使った試算の考え方は会社売却の相場は業種でいくら違う?成約1.4万件の実測倍率で詳しく解説しています。
まとめ
IT業界のM&A動向を整理すると、以下の3点が重要です。
- 日本全体のM&A市場は2025年に件数・金額ともに過去最高を記録し(レコフデータ)、IT業界がその件数増加を長年にわたり牽引している
- エンジニア不足・後継者不在・DX需要・AI活用という構造要因が重なり、買い手の需要は中長期で衰えにくい状況が続くとみられる
- 売り手にとっては、エンジニア組織・ストック収益・顧客基盤の質を高め、キーマンリスクを管理しておくことが高評価・スムーズな成約への近道になる
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